2005.03.22 Tuesday
梨田昌孝 一番おとこまえに見えた日 |
2004年11月30日、大阪近鉄バファローズがその55年の長い歴史に幕を閉じました。結成以来一度も売却の憂き目に遭っていない「優良球団」であったはずの近鉄バファローズが、売却ではなく合併という形で消滅した事実はファンならずとも衝撃を受けたことでございましょう。1989年以来のファンでありましたわたくしは、「バファローズに無くなって欲しくない」と言うのすら怖かったものでございます。着実に合併に向けての協議が進行していたを認めてしまうことになるような気がしたからです。
大阪ドームでの最後の試合では、赤堀元之が登板し、試合後西武ナインとの握手で伊東監督と抱き合う姿を見て、泣くまいと抑えていたのに滂沱の涙が流れ出したのでした。
一見気の弱そうな男の子風情の彼でしたが、一旦マウンドに立つや試合の流れのすべてを背負い、9回は誰にも譲らないという守護神としての存在感はそのギャップとともに、わたくしにとって忘れ得ぬ選手となりました。 少し感傷的になりましたが、今回はその大阪近鉄バファローズで最後の采配を振るった梨田氏についてです。 昨年10月、新生オリックス・バファローズがヘッドコーチとして梨田氏を迎える準備があるというニュースが飛び込んできました。これは充分予測できたことで、わたくしなどは仰木氏が就任することになる前から新バファローズの監督は梨田氏になるのではないかと思っておりました。 結局監督は仰木の翁が就任することになりましたが、かつての師弟関係を鑑みてヘッドコーチは梨田氏でもまったくおかしくない状況でした。ですが、梨田氏は苦渋の決断をいたします。 ひとつのケジメとして、6月に合併問題が出てからは、もうユニホームを着てはいけないという気持ちになった。球団関係者の処遇が明確になってからと思っていたので、自分が先に(ユニホームを)着る方向には行けない 梨田氏はかつての恩師の誘いを断腸の思いで断られたのでした。 わたくしはこの報に触れて、おとこまえ云々以前に「上に立つ男」とはかようなものなのだと強く思いました。球団関係者の処遇が明らかになっていないのに、自分が先にユニフォームを着るわけにはいかない。この言葉はまぎれもなく男・梨田昌孝の言葉だったのです。 一方、近鉄・オリックス合併が真実味を帯びつつある中、早々と他球団への入閣が決まったコーチたちの存在がありました(某球団のあの人、この人もそうですね)。もちろん彼らを責めることはできません。しかし、これから分配ドラフトにさらされ、下手をすると野球人生を断たれるかもしれない選手たちにとってそれはどのように映ったのでありましょうか。 だからこそ梨田氏のオリックスヘッドコーチ就任辞退は選手たちにとって心強かったのだと思うのです。梨田氏ともなれば解説者として引く手数多でしょうし(現にNHK解説者に返り咲いておられます)、その後の去就についてさほど心配する必要がなかったから断れた、というのも事実でしょう。ですが、熱心に誘われた仰木氏に断りの返事をしなければならないのも彼にとっては身を切られるほどつらかったはずです。 わたくしは現役時代にその強肩で福本氏を刺した梨田氏よりも、監督としてバファローズを優勝に導いた梨田氏よりも、ヘッドコーチ就任を断られた梨田氏におとこまえを感じるのでした。 |